数珠巡礼

メニュ

寶林寺Horin-ji Temple

 

山の緑が三段の池を囲み、野鳥山草など豊かな自然の中に建っています。平安末期作の釈迦、薬師、阿弥陀の三如来(いずれも重要文化財)が三体並んで安置されています。

当寺院のさげわたし数珠玉

寺宝・名所

  • 三如来像

    収蔵庫には釈迦、薬師、阿弥陀の三如来像が安置されています。躰とも平安時代の様式で重要文化財に指定されています。

  • 阿弥陀如来坐像 (重要文化財) 

    平安時代後期(12世紀) 木造(寄木造)・漆箔 像高139・5㎝  この阿弥陀如来像は、宇治・平等院阿弥陀如来像の作家として知られる仏師定朝の作り出した「定朝様」というデザインからなっています。体のバランスがとれ、力のこもった様子が見られません。頭の螺髪は細かく丁寧に刻まれています。鼻や口元は小さめに整った形で表され、両眼はわずかに開いて長く優雅なカーブを描いています。衣の襞は浅く、平行に揃えられています。組み合わされた両足はゆったりとして、膝頭が台座に着くかのようです。  正面は堂々とした体格ですが、横から見ると頭部の奥行はあるものの、胸・腹部はそれほど厚くありません。これらの特色は平安貴族の繊細な美意識にあわせて洗練されたもので、京都から招かれた優れた仏師の手によるものでしょう。12世紀に活躍した円派と呼ばれる仏師たちの作風を感じさせます。

  • 薬師如来坐像 (重要文化財)

    平安時代後期(12世紀) 木造(寄木造)・漆箔 像高120・5㎝  これらの如来像が伝わったとされる宝釈寺(廃絶)は天台宗であったとされます。薬師如来は天台宗の延暦寺本尊であることから、各地の天台宗寺院で多く本尊とされています。  本像は平安時代後期に流行した定朝様で造られています。上半身に比べて両脚の幅が広くなり、頭部の螺髪はやや大きめで、目鼻は顔の中央に集まっています。薄く開かれた両目は短いカーブを描き、小さめに刻まれています。頬から顎にかけての輪郭が広くふっくらとした印象です。胸は広いですが両腕は細めに作られ、上半身の大きさが強調されています。ふくよかな体格、目鼻の小ぶりな様子は円派仏師の影響を思わせます。一方、螺髪の彫りがやや粗く、衣の襞が深いこと、構造面で古い部分が認められるなど、異なる点も見られます。円派に学んだ丹波在地仏師の手になる可能性があります。

  • 釈迦如来坐像(重要文化財)

    鎌倉時代(13世紀) 木造(寄木造)・漆箔 像高141・5㎝  三体の如来像の内もっとも後になって造られたと考えられます。細部にいたるまで丁寧に仕上げられ、プロポーションが整い、上半身は胸が厚く堂々としています。デザインは他の二体と同じ定朝様が基本となっていますが、顔立ちがずいぶんと異なっています。顔は面長で、両目の見開きは大きく眼尻が吊り上がり、引き締まった表情です。両脚の太ももが膨らみ、膝頭もゆるく沿っているなど、体には力がこもった印象があります。これらの特徴は平安時代後期の美意識とは異なり、鎌倉時代の新しい流行によるものです。平安時代後期の美意識を受け継ぎつつ、新しい表現を取り入れたその姿は、やはり京都のすぐれた仏師によるものでしょう。有名な慶派とは異なったグループと考えられ、やはり円派の作であるかもしれません。

  • 九重塔 (重要文化財)

    鎌倉時代 正和5年(1292)  基礎に刻まれた銘文によると、信念ら四人の人々によって正和五年に建てられました。各層の笠の幅が狭く、縦方向に伸びる姿が特徴的です。この形式の石塔は古くから見られますが、鎌倉時代中期から後期にかけて増加し、近畿地方に多く見られます。金輪寺にも同年に造られた九重石塔が伝わり、同系の石工の作と考えられます。丹波地方では同じころに造られた石塔が亀岡市北部から南丹市南部に集中して伝わっています。鎌倉時代から室町時代にかけて、様々な石塔を建立させた人々と、その仕事を請け負った石工の集団がこの地域で活動していたことを伝える貴重な信仰の証と言えるでしょう。如来像と共に宝釈寺ゆかりと伝えられています。

お知らせ

  • 桜のお茶会 『花見茶vol.2』を開催します

    桜の名所~寶林寺で、開催される「桜のお茶会」今回で2回目の開催となります。
    春を迎える豊かな自然、桜が咲き誇り、野鳥のさえずりを聴きながら、一服のお茶を喫する。
    至福の時を過ごしませんか。
    座禅体験とお茶席のセットもご用意しています。
    座禅体験は、重要文化財 釈迦、薬師、阿弥陀の三如来が安置されている収蔵庫で開催します。三如来と対面し心静かに座禅を組む、これまでにない特別な体験です。

    桜のお茶会『花見茶vol.2』
    (同時開催:茶器 作品展)

    2024年3月31日(日曜日)
    10:00 ~ 16:00(急な予定変更あり)

    座禅体験、お茶席 (各回10名 程度、予約優先)

    10:00~:座禅・お茶席 セット

    11:00~:お茶席

    13:00~:お茶席

    14:30~:座禅・お茶席 セット

    ※座禅指導:寶林寺 住職 小堀 良實

    ■参加費:座禅・お茶席セット・・・2,000円
    お茶席のみ・・・1,000円
    ※ 当日は、茶器作品展、重要文化財 三如来 像 の拝観無料

    茶器作品展 出展作家
    ・池田 啓一(炎生土窯)
    ・鬼丸 碧山(鬼丸雪山碧山窯)
    ・川合 太一(陶房薄氷)
    ・篠原 貴志・恵(陶工房しの平窯)
    ・新村 真規人
    ・吉田 欣司「木工」

    ■臨時駐車場 あり・・・神前ふれあいセンター駐車場

    ■ご予約・お問い合わせは
    café nouka : TEL090-2112-5648
    http://cafe-nouka.com/

沿革

 

寶林寺は、聖観世音菩薩を本尊とし、寛文年間(一六六一~一六七三)に春嶺紹(しゅんれいじょう)温(おん)大和尚を開山とする、臨済宗大徳寺派の寺院です。

開山の春嶺紹温は、大徳寺第一七五世の大徳寺龍(りょう)泉(せん)門下明叟派(めいそうは)の随倫宗宜(ずいりんそうぎ)の法統を受け継ぎ、寛文三年(一六六三)に大徳寺住持第二〇四世となります。大徳寺の塔頭太(たい)清(せい)軒(けん)に住し、当山寶林寺と三重県亀山市の正覚寺を再興しました。その後、寛文七年(一六六七)に五四歳で遷化します。春嶺紹温以後の歴代持寺は、春嶺紹温の法脈を始め、大徳寺第三五四世の心(しん)瑛(えい)宗悦(そうえつ)の法脈といったように、龍泉門下明叟派の禅僧に受け継がれていきます。
なお、寶林寺の創建については、天正年間(一五七三~一五九二)の明智光秀の丹波進攻に伴う兵火により廃寺となった、かつて神前集落の北側の北山から西に派生する尾根を中心に七堂伽藍を誇った天台宗の宝釈寺を再興する形で創建されたことが、『春嶺紹温偈頌(げじゅ)』や『明治維新前地方民政制度調査要綱』等により知ることができます。
この宝釈寺は、神前集落の西側の山裾に、「宝釈寺」の地名があり、その背後の舌状丘陵には、宝釈寺で祀っていた薬師如来、阿弥陀如来、釈迦如来の三如来を造像した場所との伝承を伝える「三作(みつくり)」、造像に際して出た木屑を埋めたとされる塚があった「塚ヶ谷」の地名が残り、さらに丘陵の中腹には、薬師堂とよばれる跡地が残ることからこの周辺と考えられます。
なお、宝釈寺廃絶後、そこで祀られていた仏像や石塔等は、神前集落の西に鎮座する佐々尾神社の神宮寺とされる神護山慈眼寺に移されました。江戸時代の地誌である『桑下漫録』によると、慈眼寺は、伝教大師最澄を開山とする天台宗の寺院で、二間四面の本堂の中央に本尊の薬師如来を祀り、右に阿弥陀如来、左に釈迦如来、さらにそれら三如来の右に毘沙門天と左に持国天を祀っていたことが記されています。しかし明治の神仏分離政策により慈眼寺は廃寺となったため、宝釈寺の旧仏等は、再び遷座の憂き目をみることとなりました。薬師如来坐像、釈迦如来坐像、阿弥陀如来坐像、石造九重塔、宝篋印塔等は寶林寺に、毘沙門天立像、持国天立像は、東神前の大悲山浄念寺に遷されました。これら宝釈寺の旧仏等は、いずれも平安時代から鎌倉時代にかけてのもので、往時の隆盛を今に伝える貴重なものです。

拝観のご案内

現在の情報

公開期間
拝観は予約制(予約は電話にて受付)
公開内容
三如来像、九重石塔
拝観料
500円
ご連絡先
電話番号 / FAX
TEL 0771-26-2228

交通案内

名称
寶林寺
所在地
〒621-0242 京都府亀岡市宮前町神前狭間27
交通アクセス
電車・バスでお越しの方

JR嵯峨野線「千代川駅」からバスで20分、「神前ふれあいセンター下車」

駐車場
10台

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