西教寺Saikyo-ji
寺宝・名所
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本堂(重要文化財、江戸時代)
総欅入母屋造。江戸時代 元文4年(1739)に上棟落成。用材は紀州徳川家からの寄進、正面の欄間(十六羅漢)や須弥壇はすべて欅の素木造で江戸初期の特色を表す豪華な装飾が施されています。ご本尊は、重要文化財の丈六の阿弥陀如来(平安時代・定朝様式)が安置されています。
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客殿(重要文化財、桃山時代)
もとは豊臣秀吉の伏見城にあった旧殿で、慶長3年(1598)に大谷刑部吉隆の母・山中長俊守内室が寄進したものです。二列に配置された室にはそれぞれ狩野派の襖絵が描かれ、賢人の間の内仏は京都法勝寺伝来の秘仏薬師如来座像(重文)です。
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客殿庭園(小堀遠州作)
この庭園は裏山の急傾斜の山畔部を巧みに利用し、丸刈角刈の小刈込を駆使した観賞庭園です。 中央の池泉は琵琶の姿を取り入れた瓢型で、山畔の下部と池泉との間に小丘坡を築いた二つの石組で構成されています。 初夏の新緑、さつきの咲く頃、秋たけなわの紅葉、冬の雪景色等は特に素晴らしい眺めとなります。
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宗祖真盛上人(1443~1495)御廟
宗祖円戒(えんかい)国師慈摂(じしょう)大師真盛(しんせい)上人は、伊勢国一志郡小倭荘大仰の里(今の三重県津市一志町大字大仰)出生。紀貫之の一族で14歳で出家、19歳の時に比叡山に上り慶秀和尚に師事、20年間山に籠もられ天台の学問を究められました。当時は応仁・文明の乱が続く下克上の時代でしたが、上人は教化指導者として深く内省せられ、文明14年黒谷青龍寺に入り日課六万辺の称名念仏を修め、社会の秩序を正し世人に安心立命を与えるには、道義を強調する円戒と弥陀本願の念仏以外には無いことを悟られ、文明18年(1486)西教寺に入寺し朝廷・公家・武士・庶民へ持戒と念仏の布教を行われ、西教寺を戒称二門不断念仏の根本道場とされました。以来、その足跡は江州・越前・伊賀・伊勢を中心に広がり民衆の信仰を集めるところとなりました。 室町時代の明応4年(1495)伊賀西蓮寺にて病に倒れ、無欲清浄専勤念仏を遺誡として、53歳で遷化されました。
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西教寺と明智光秀
元亀2年(1571)織田信長の比叡山焼き討ちの際、当寺も災禍を被りました。 その直後に築かれた坂本城の城主となったのが明智光秀でした。光秀は西教寺の檀徒となり、復興に大きく力を注ぎました。総門は坂本城城門を移築したもので、鐘楼堂の鐘は陣鐘です。天正10年にこの世を去った光秀は6年前に亡くなった内室熙子や一族の墓とともに祠られています。
沿革
滋賀県大津市の天台真盛宗総本山 西教寺は聖徳太子が恩師である高麗の僧慧慈、慧聡のために創建されたと伝えられています。その後、久しく荒廃していましたが、慈恵大師良源上人が復興、念仏の道場としました。恵心僧都も入寺、修業されたところから次第に栄えるようになりました。鎌倉時代の正中2年(1325)に入寺された恵鎮(円観)上人は、伝教大師が畢生の事業として提唱された大乗円頓戒を復興、その後百有余年を経た文明18年(1486)に真盛上人が入寺されるに至り、堂塔と教法を再興、不断念仏の道場とされました。以来全国に約四百余りの末寺を有する総本山となりました。
行事案内
現在の情報
毎月25日 | 宗祖大師御逮夜法要 |
毎月26日 | 宗祖大師御祥当法要 |
毎月27日 | 永代祠堂施餓鬼会 |
1月元旦 | 修正会 |
1月16日 | 大般若経転読会 |
1月28日 | 宗祖大師降誕会 |
2月3日 | 節分会(木造薬師如来像(重文)御開帳) |
2月15日 | 釈尊涅槃会御祥当法要 |
3月3日 | 人形供養法楽 |
4月5日 6日 7日 | 法華千部会 |
5月8日 | 釈尊降誕会(花まつり) |
5月16日 | 大般若経転読会 |
6月4日 | 伝教大師御祥当法要 |
6月14日 | 明智光秀公御祥当法要 明智光秀公顕彰会 |
8月8日 | 算盤供養会 |
8月16日 | 盂蘭盆施餓鬼会 |
9月9日 | 重陽の節句会 |
9月16日 | 大般若転読会 |
9月下旬 | 別時念仏会 |
11月初旬 | 得度授戒会 |
11月初旬 | 重授戒潅頂会 |
11月24日 | 天台大師会 |
12月31日 | 除夜法要 除夜の鐘 |
交通案内
- 名称
- 西教寺
- 所在地
- 〒520-0113 滋賀県大津市坂本5丁目13番1号
- 交通アクセス
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◎JR湖西線『比叡山坂本』駅 下車、江若バス約7分(西教寺下車)、又は徒歩30分
◎京阪電車『坂本』駅下車、江和バス約4分(西教寺下車)、又は徒歩25分